牡蠣のふるさと
1月19日、久しぶりに、仙石線に乗りました。
仙台から石巻へ通じるローカル線。子どもの頃多賀城に住んでいた私は、仙台や塩竈へ出かけるために、よくこの電車に乗っていました。
幼稚園の頃、電車が駅で停まるたび、駅名を読み上げていた私に、ひらがなを教えてくれたのは仙石線でした。最初に覚えた「かやのの“の”」のつく東松島市の野蒜(のびる)駅は、まだ壊れたまま。ホームに自転車が転がっています。海岸線を走るこの路線は、津波で大きく被害を受け、松島海岸駅と矢本駅の間には、まだ電車は走っていません。
代行バスでたどり着いた私を出迎えてくれたのは、牡蠣漁師の高橋洋さん。
40歳で4児の父。バリバリの働きざかりです。
はい。こちらが高橋さん。カメラは苦手みたいなので、横顔だけにしました。
Facebookのお友だちのTさんが、おいしそうに牡蠣を食べていて、「東松島のだ」と自慢していたのを見て、「私も食べたい!」といったら、作ったこの方を紹介され、いきなり野蒜でお会いすることになったのです。
最初に連れていっていただいたのは、「野蒜築港(のびるちっこう)」といって、明治期に、政府が横浜・神戸なみの貿易港を作ろうとした場所です。
ところが、工事中に2度の台風に見舞われ断念。もし、これが実現していたら、仙台にも外国の文化が入ってきて、貿易で栄えまくり、横浜や神戸みたいなお洒落な街になっていたのかもしれません(ムリだべが…)。
そこも大きく津波の被害を受けました。地形そのものが変わってしまったそうです。周囲もまだ壊れたままの家や、浸水した空き地が広がっています。
だけど、すごいのは、目の前に広がる東松島の海。
私はこれまで、震災後間もなく種牡蠣を手に入れ、海へ投じ、いち早く養殖を再開した漁師さんに会ってきました。みんな「預けておいた種が無事だったから、早く再開できた」と話していました。
「南三陸の工藤さん、気仙沼の畠山さん、陸前高田の藤田さん……」
「あっ、その種は、全部、ここから行ったんですよ」
「えっ、ぇぇぇええええーっ!」
「外洋の棚にかけてたのはダメだったけど、島の影の内湾の抑制棚は、津波が来ても大丈夫だったんです」
「ええーっ、それはすごい。そこに連れてけぇぇ!」
「船で、連れてってもいいけど、時間ないっすよ」
おっとそうだった、私は10時4分のバスを降りて、11時4分のバスに乗らならければ……。この日は1時間きっかりのデートだったのです。
三陸に牡蠣の産地はたくさんありますが、その元となる種牡蠣を作れる場所は、この東松島と石巻の万石浦に限られています。宮城種は全国的にも評価が高く、岩手や広島、日本中の産地で使われています。
「日本中の牡蠣の赤ちゃんを産み育てている。お母さんみたいな海なんですね」
高橋さんの加工場では、牡蠣むきが進んでいました。
種ガキだけでなく、1年ものの牡蠣も養殖して、販売しているのです。
高橋さんの牡蠣は、殻を開けると、きわきわまでむっちり。
つるりんと、ひと口で呑み込むように食べた後、いつまでもそこに味わいと香りの余韻が残ってる。そんな存在感のある牡蠣でした。
周囲はまだ、人家も、水産関係の加工場も見当たらず、閑散としているのに、なぜか巨大なメガソーラの太陽光パネルが並んでいたりもしました。
「600軒分の電気を発電します」とあるけれど、肝心の民家がぜんぜんないよぉ。
港のかさ上げも、電車や駅の復旧もまだ。近くにあった小学校は、地元の消防署や郵便局に変わってしまい、子どもたちはバスで20分先の内陸部の学校へ通っているそうです。
そんな状況の中でも、
「同じ宮城県でも、北と南では牡蠣の旬は2カ月ぐらい違うから、時間差をつけて売れるようにしていきたい」とか、
「原発事故以来、ストップしている海外輸出を、再開させなくちゃ……」とか、
宮城や三陸だけでなく、日本全体の牡蠣養殖を視野に入れて、ビジョンを語る高橋さん。
「4人子どもがいるから、4つ会社を作って渡さなくちゃ」
と、いってました。すごいなあ。
4つの会社ができる頃、東北の海や日本の漁業は、どうなっているだろう?
高橋さんの牡蠣は、「天海のろばた」という、これまた気合いの入った居酒屋で味わうことができます。
仙台駅から歩いて10分くらい。他にも宮城県産のお魚いっぱいのお店です。
高橋さんの「きわきわまでむっちり」な牡蠣。そして「口いっぱいに広がる余韻」を味わってください!
天海のろばた
仙台市青葉区中央1-6-1 ハーブ仙台6F
営業時間 17時〜22時
050-5513-9585
http://r.gnavi.co.jp/t239500
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