2016年12月27日 (火)

『手紙になったリンゴ』

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あれは私が小学校1年生の時、『手紙になったリンゴ』(手島悠介作・山本まつ子絵 岩崎幼年文庫)という絵本を読みました。たしか読書感想文の推薦図書だった気がします。

 

北国に住む女の子「ちこ」のお父さんは、東京へ出稼ぎに行ったまま、なかなか帰ってきません。工事現場で働いて、リンゴ園を開くお金を貯めているのです。

 ちこはお父さんに会いたい一心で、リンゴに思いを託します。

 

「おとうさん はやくかえってきて ちこ」

 

色づく前の緑のリンゴにマジックで、と黒々と書き、

赤く色づいたところでタオルでごしごしごし。

黄色い文字がくっきり浮きあがってきました。

 

東京のどこにいるかわからないお父さんを探して、リンゴは本当に頑張ります。

行く先々で出会う人やカラスのお母さんに助けてもらいながら、探し続けます。

だけどどんどん文字は薄れて、見えなくなっていく。もうダメか?

 

「でも、リンゴは、ないたりしませんでした。自分で自分のことを、かわいそうだと思ったところで、なんにもならないことを、リンゴは知っていたのです」

 

えらいぞリンゴ、がんばれリンゴ!

ドキドキしながら読んでいた、1年生の私がいました。

 

 

あれから時は流れて……

去年の秋、淡路島へ行った帰り道、兵庫県加東市の岡部産業を訪ねました。岡部雅子さんと晴美さん親子が営む「バクタモン」の会社です。初めて聞いた時は、「バクタモンって誰?」と思いましたが、ドラえもんの親戚ではなく、日本で65年以上前から使われている農業用の微生物資材で、これを使っている農家は「味がいい」と評判なのです。

 

昼食をいただいた後、おいしそうなリンゴが出てきました。もちろん「バクタモン」を使って栽培されたものです。

「青森の片山さんのリンゴですよ」と社長の岡部さん。

「えっ、片山さん? あのずんぐりむっくりで、ぼそっぼそっと津軽弁でしゃべって、哲学が大好きで東北大に7年も通って、日本で初めて自力でリンゴをヨーロッパへ輸出した、あの片山さんですか???」

「そうですよ。リンゴの樹、一本一本抱きしめるように育ててる、あの片山さんですよ」

「うわあ、おひさしぶりぃぃぃぃ」

 

思わずリンゴに手を振る私。そしてひと口かじると「しゃり」。

甘く、冷たくて、目の前にリンゴ畑が広がっていくよう。

懐かしい片山さん。10年前と5年前、弘前でお会いしたきりだったなあ。

 

「青森に来て!」

皮に浮き出る黄色い文字はないけれど、そんなリンゴの声が聞こえた気がしました。

「へっ? なんですと?」

「いいから早く、片山さんに会いに来て!」

「わっ、わがった。なんとかして行くから、待ってて」

 

いつしかリンゴは、片山さんから私への手紙になっていたのです。

 

 

今年の秋、そんな片山さんの農園を5年ぶりに訪ねました。なぜか2回も。

その時の模様がこちら。

『農耕と園芸』20171月号

http://noko.seibundo-shinkosha.net/magazine/20161222/162949/

 

タイトルは、

「リンゴは、味と中身で勝負!」

 

リンゴも人も一緒だよ。

 

日本人は、見た目で農産物を評価しがちだけど、

額物やケースに入れてずっと飾っておけるわけじゃない。

食ってなんぼだべさ。

いわれてみればごくごく当たり前のことを、

片山さんは、出会った時からずっと訴え続けている気がします。




2014年2月 3日 (月)

牡蠣のふるさと

1月19日、久しぶりに、仙石線に乗りました。
仙台から石巻へ通じるローカル線。子どもの頃多賀城に住んでいた私は、仙台や塩竈へ出かけるために、よくこの電車に乗っていました。
幼稚園の頃、電車が駅で停まるたび、駅名を読み上げていた私に、ひらがなを教えてくれたのは仙石線でした。最初に覚えた「かやのの“の”」のつく東松島市の野蒜(のびる)駅は、まだ壊れたまま。ホームに自転車が転がっています。海岸線を走るこの路線は、津波で大きく被害を受け、松島海岸駅と矢本駅の間には、まだ電車は走っていません。
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代行バスでたどり着いた私を出迎えてくれたのは、牡蠣漁師の高橋洋さん。
40歳で4児の父。バリバリの働きざかりです。
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はい。こちらが高橋さん。カメラは苦手みたいなので、横顔だけにしました。
Facebookのお友だちのTさんが、おいしそうに牡蠣を食べていて、「東松島のだ」と自慢していたのを見て、「私も食べたい!」といったら、作ったこの方を紹介され、いきなり野蒜でお会いすることになったのです。
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最初に連れていっていただいたのは、「野蒜築港(のびるちっこう)」といって、明治期に、政府が横浜・神戸なみの貿易港を作ろうとした場所です。
ところが、工事中に2度の台風に見舞われ断念。もし、これが実現していたら、仙台にも外国の文化が入ってきて、貿易で栄えまくり、横浜や神戸みたいなお洒落な街になっていたのかもしれません(ムリだべが…)。
そこも大きく津波の被害を受けました。地形そのものが変わってしまったそうです。周囲もまだ壊れたままの家や、浸水した空き地が広がっています。
だけど、すごいのは、目の前に広がる東松島の海。
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私はこれまで、震災後間もなく種牡蠣を手に入れ、海へ投じ、いち早く養殖を再開した漁師さんに会ってきました。みんな「預けておいた種が無事だったから、早く再開できた」と話していました。
「南三陸の工藤さん、気仙沼の畠山さん、陸前高田の藤田さん……」
「あっ、その種は、全部、ここから行ったんですよ」
「えっ、ぇぇぇええええーっ!」
「外洋の棚にかけてたのはダメだったけど、島の影の内湾の抑制棚は、津波が来ても大丈夫だったんです」
「ええーっ、それはすごい。そこに連れてけぇぇ!」
「船で、連れてってもいいけど、時間ないっすよ」
おっとそうだった、私は10時4分のバスを降りて、11時4分のバスに乗らならければ……。この日は1時間きっかりのデートだったのです。

三陸に牡蠣の産地はたくさんありますが、その元となる種牡蠣を作れる場所は、この東松島と石巻の万石浦に限られています。宮城種は全国的にも評価が高く、岩手や広島、日本中の産地で使われています。
「日本中の牡蠣の赤ちゃんを産み育てている。お母さんみたいな海なんですね」

高橋さんの加工場では、牡蠣むきが進んでいました。
種ガキだけでなく、1年ものの牡蠣も養殖して、販売しているのです。
周囲はまだ何もない中で、単独で加工場を建てて作業しているのは、ここだけのようでした。08
高橋さんの牡蠣は、殻を開けると、きわきわまでむっちり。
つるりんと、ひと口で呑み込むように食べた後、いつまでもそこに味わいと香りの余韻が残ってる。そんな存在感のある牡蠣でした。
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周囲はまだ、人家も、水産関係の加工場も見当たらず、閑散としているのに、なぜか巨大なメガソーラの太陽光パネルが並んでいたりもしました。
「600軒分の電気を発電します」とあるけれど、肝心の民家がぜんぜんないよぉ。
港のかさ上げも、電車や駅の復旧もまだ。近くにあった小学校は、地元の消防署や郵便局に変わってしまい、子どもたちはバスで20分先の内陸部の学校へ通っているそうです。
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そんな状況の中でも、
「同じ宮城県でも、北と南では牡蠣の旬は2カ月ぐらい違うから、時間差をつけて売れるようにしていきたい」とか、
「原発事故以来、ストップしている海外輸出を、再開させなくちゃ……」とか、
宮城や三陸だけでなく、日本全体の牡蠣養殖を視野に入れて、ビジョンを語る高橋さん。
「4人子どもがいるから、4つ会社を作って渡さなくちゃ」
と、いってました。すごいなあ。
4つの会社ができる頃、東北の海や日本の漁業は、どうなっているだろう?

高橋さんの牡蠣は、「天海のろばた」という、これまた気合いの入った居酒屋で味わうことができます。
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仙台駅から歩いて10分くらい。他にも宮城県産のお魚いっぱいのお店です。
高橋さんの「きわきわまでむっちり」な牡蠣。そして「口いっぱいに広がる余韻」を味わってください!

天海のろばた
仙台市青葉区中央1-6-1 ハーブ仙台6F
営業時間 17時〜22時
050-5513-9585
http://r.gnavi.co.jp/t239500

2014年1月23日 (木)

東松島のおそば屋さん

先日、取材で訪れた東松島市で、あるおそば屋さんを訪ねました。

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その名も「東京玉川屋」さんといいます。

宮城県にあるのに、店名に「東京」がつくのは、なぜでしよう?
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お店を切り盛りしているのは、長島浅一さんと早苗さんご夫妻。
2012年の6月「そばうどん」という雑誌の取材でこの店を訪ねて以来なので、お訪ねするのは1年半ぶり。お元気そうで何よりです。
元々この店は、東京でそばの修業をしていたさんのお父さんが、20数年前に東松島へ移住して開いたお店でした。
「ちゃんと東京で修業した、江戸前の味。だから東京玉川屋」。店名にはそんな思いが込められています。
しかし、お父さんは震災の数年前から体調を崩されて、お店も休みがちでした。娘の早苗さんは、東京でこれまたそば屋の浅一さんと出会い結婚。浅一さんは銀座に本店をもつ老舗で16年働いていたので、自然に「継がないか」という話が持ち上がりました。
2人は、ようやくお店を継ごうと決めて、東松島に移住。2011年4月にオープンの予定でした。ところが……
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お店は、住宅街。しかも、定川の堤防のすぐそばにあります。震災の時は、ここから海水とヘドロがあふれて、お店の中まで流れ込んできました。
背の高い浅一さんの腰の高さまで水が来て、一週間引かなかったそうです。
早苗さんのお父さんは、厨房の道具をいつでも使える状態で残していたのに、製麺機は大破。業務用の冷蔵庫も扉が凹んでしまうほどのいきおいだったそうです。
そこからはお店の掃除がもうタイヘン。「再開しても、はたしてお客さんは来てくれるのか」、不安でいっぱいだったといいます。
それでも製麺機のメーカーさんや、いろんな方の協力を得て、震災の年の8月にオープン。再開の時、お店を創業したお父さんは「店名を変えないように。あとは好きにしていい」と、浅一さんに告げたそうです。
だから今も「東京玉川屋」。二代続けて東京の味を伝えます。
久しぶりに天ざる(1100円)をいただきました。
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そばは白くすっきり。江戸前の味。
野菜は、今回は天ぷらですが、かき揚げを作る時も、オーダーが入ってから刻む。そんな丁寧な仕事ぶりが伺えます。
東京と違うのは麺と海苔の量。東京のおそばは、あっという間にペロリ。
しばらくするとすぐお腹が減るぐらい少ない(笑)。
だけど、宮城県民はそれではナットクしないので、ここではたっぷり盛りつけられています。
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2年前、私が書いた柴田書店の「そばうどん」の記事が、飾ってあったのもウレシい。[被災してがんばる東北のおそば屋さん、4軒訪ねました]
市街地や観光地から外れた住宅街の中にあるので、ちょっとわかりにくい場所ですが、そば好きの方は、ぜひ!
江戸前のそばが、たっぷり味わえる東松島の「東京玉川屋」さん。
東北のみなさんはもちろん、そば通のみなさんにも、ぜひ訪れていただきたいお店です。

 

宮城県東松島市赤井字川南7-18
TEL0225-83-4788
営業時間/11時〜16時
定休日/火曜日

2013年12月 5日 (木)

伊藤さんのパン

もうすぐクリスマス。

ちょっと早いですが、石巻からステキなプレゼントが届きましたー!
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送り主は、カンパーニュ専門店「OJ60(オージェーロクマル)の伊藤正和さん。

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                           [撮影:松田純二郎]

 

伊藤さんのことを初めて知ったのは、去年の5月。「河北新報」の記事でした。
被災して、仙台でパン屋の修業をして、60歳でカンパーニュ専門店を開いた人がいると知って、びっくりしたのを憶えています。
若い人でもしんどくて大変な修業を乗り越えて、60歳でパン屋さん???
しかもカンパーニュ専門店? 

 

元々宮城県は「パン屋が苦戦する土地柄」といわれています。なぜならみんなおコメをいっぱい食べるから。仙台市内でも、私が学生時代に通っていた地元のパン屋さんはいつしか姿を消し、東京と同じ名前の看板を掲げる店が目立つようになっていました。

 

さらに「東北人にハード系のパンは、馴染まない」ともいわれていました。ワインやチーズと一緒に生地を味わう……なんてスタイルは、なかなか根付かず、具材いっぱいの菓子パンや惣菜パンの方がよく売れる。それもまたよくある傾向です。

 

ところが伊藤さんは、還暦でパン屋さんを開業するだけでもスゴいのに、
粉と水と塩しか使わない。生地で勝負のカンパーニュの店を石巻に開くなんて、二重の意味でチャレンジャーだ。だけど新聞記事に写ってるパンは、おいしそう。
「どうしても、この人のパンを食べてみたい」と思ったのでした。
そうして初めてお訪ねしたのは8月。その年の暮れにまたおじゃまして「cafe-sweets」という雑誌で紹介させていただきました。
詳しくはコチラ↓
http://www.shibatashoten.co.jp/detail.php?bid=08080200
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これが定番の「トマリーブ」。生地の中にドライトマトが練り込まれていて、ちょっとイタリアンな空気を感じます。お久しぶりぃ〜。
それから……あれあれ? 見たことのないパンがいっぱい。しかもカラフル。
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うわあ、5色のパンが入っている!
その名も「大人のための赤カンパ」。黒、緑、黄カンパもある。
まるで「カンパーニュのゴレンジャー」みたいだな。
お礼の電話をしたら、伊藤さんが「お菓子も作ってみました」と。
それがコチラ↓
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「ジュネ」という名の焼き菓子で。
ナッツとドライフルーツが「これでもかーっ!」ってぐらい入っております。
世の中はクリスマスで浮かれてるこの季節、実は〆切や雑事に終われがちです。「ふん、クリスマスなんて、子どもと若者の行事。おばさんにサンタは来ないのさ」なんて、ヤサグレてしまいそう……。

 

「ジュネ」はとっても噛み応えがあって、いつの間にかどんどん咀嚼していて、ナッツとフルーツの甘味と栄養が、脳を刺激して「頑張れぇぇ!」といってる気がしました。ちゃんと私にもサンタさん、来るのだな。
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一緒に入っていた、スペイン製のココアもありがたい。
震災前は、女川で旅館の支配人をしていて、いろんなお客さんに気配りされていた伊藤さんの心遣いを感じます。

 

伊藤さんのパンは、石巻でも人気。「ずっとこういうの食べたかったんだ」という人が、遠方からもやってくるとか。
私の書いた記事を見て、遠方から訪ねて来たパン屋さん、神戸から「私の焼いたパン食べてください」と送ってくれた女子高生もいたそうです。いろんなつながり生まれているのですね。

 

震災を機に、新しい食文化が生まれています。
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「フランスに行かずにパン屋になったけど、落ち着いたら家族やお店のスタッフと、フランスへホンモノのカンパーニュを食べに行きたい」といっていた伊藤さん。
今も石巻で、独自のカンパーニュを進化させています。
近くへ行ったらぜひ!
行けなくても、ネットで購入できます。
震災を乗り越えて、進化し続けるカンパーニュを、ぜひ、召し上がってください。

 

■OJ60(オージェーロクマル)
宮城県石巻市鹿又字扇平150-1
TEL0225-74-2454
http://oj60.jimdo.com/

2013年10月 3日 (木)

いわきの漁師さんは、今…。

10月10日、昨年6月の相双漁協に続き、いわき漁協でも、2年半ぶりに試験操業が始まります。本当は9月に始まる予定でしたが、原発の汚染水問題が浮上してストップ。満を持しての再開です。

そこでいわきの漁師、新妻竹彦さん(52歳)に、電話でお話を伺いました。8月末に訪れた「いわきサイエンスカフェ」で、たまたま隣の席に居合わせた方で、

「久之浜で、底曵きやってる新妻です」と自己紹介していました。本人のたってのご希望で、顔写真は省略します。

——新妻さんも、今回試験操業に出られるのですか?

10月3日の試験操業は、沖合いの漁場で魚を取る船が中心。私たち10t未満の船はふだん操業する海域ではないので、参加は見合わせることになっています。私の熊野丸は6.6t。震災前は海岸から20km以内の海域で魚を獲っていました。

 

——震災前は、どんな漁をされていましたか?

久之浜の小型底曵船は、福島第一原発から20km圏内で行なう漁が、操業時間の8割を占めていました。「底曵き」は、海の底にいる魚を網を使って捕獲するもの。網を揚げると、いろんな魚が混ざりあって入ってきます。


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今回の試験操業で、漁獲が認められているのは、スルメイカ、ミズダコ、ズワイガニ、アオメエソ(メヒカリ)など16種。一方、アイナメ、ヒラメ、マコガレイ、スズキなど42種は出荷が禁止されています。ですが、底曵きの網には、その両方が一緒に入ってくる。混獲率の高い操業形態なのです。

我々の漁獲の中心は、ヒラメやカレイ類。量的にも価格的にもヒラヒラした底魚がメインでした。今出荷停止されている42種が全体の7割を占めていましたが、大部分が出荷停止になっています。それ以外の魚を売っても、売上げは2割にもなりません。

Photo    ↑2012年3月、茨城県の魚市場で販売されていたカレイたち。

——出荷が認められている魚種だけを、選んで獲ることはできないのですか?

単独で漁獲できる、タコやイカ、ズワイガニ。海の表層を群れで漂うシラスやコウナゴ以外はまずムリですね。一度網にかかったら、一網打尽。みな一緒に獲れてしまうのです。

 

——一度上がったヒラメやカレイを、すぐ海に戻しては?

底曵きでとった魚を、生かして海に返すのはムリです。今回の試験操業の場合、水深150mの場所にいるものを一気に揚げてくるわけです。気圧は地上の15倍。目や浮き袋が飛び出るほど気圧が違うので、船に揚がった時点で生きていられません。あわよく生きていたとしても、自力で泳いで元いた場所に戻るなんて土台ムリなのです。

 

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——操業するには何が必要ですか?

私としては、「非破壊検査型全量検査システム」が、操業再開に向けて必須の重要な柱だと考えています。

 

——えっ、魚の全量検査ですか? 刻まず非破壊で行なうのですか?

はい。

 

——同じ形状で、検査後も食べられるコメなら可能ですが、魚を刻まずに計るのは、ムリなのでは?

検出限界をひと桁に設定して、長時間かけていたら、魚がダメになってしまいますが、たとえば50Bq/㎏に設定して行なう簡易的なものであれば、不可能ではないと思います。

 

——その根拠はどこに?

去年の5月頃、「久之浜の漁師の新妻です」と、ネットで検査機のメーカーに片っ端からメールを送りました。技術者に会って話がしたい。すると、5社ほどの人たちが「いいですよ」と、話してくれました。実際に会って話して非破壊検査の可能性を探ると「決して不可能ではない」と。実際に石巻や大津(茨城)では、それに近い測定器が使われているのです。それにコメで行なわれている全袋検査の技術を応用すれば、必ずしも全量検査は不可能ではないと考えるようになりました。

 

Photo_2      ↑昨年の福島県のコメの全袋検査の様子

 

——そういう意見の漁師さんは、他にもいるのですか?

いえいえ、いわきの漁師でも極少数派です。原発事故が起きて1年目は、さすがに凹んでいました。けれど、試験場のモニタリングの結果を見る限り、海水も、魚も、海底土も放射性物質のデータの値が下がってきた。これは事実。去年の6月、相双漁協での試験操業が始まった。海の汚染は南側に広がっていて、原発の南側に位置するいわきは難しいといわれていましたが、これならきっと獲れる。そう思えるようになってきました。これは、真剣に考えて、考え抜いて、たどり着いた結果です。

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    ↑久之浜の底曵き船。網の口を広げる「オッターボード」がついている。

 

——今はどう過ごされているのですか?

火曜と金曜がガレキ撤去の日。調査の日もあって船を出しています。

 

——本格操業や全量検査が実現するまでの間、やりたいことは何ですか?

今、問題なのは消費者への伝え方。水産試験場や漁協のHPの情報は、消費者にはわかりにくいし、納得しないと思います。大新聞やテレビもセンセーショナルな話題を探して、深刻そうな漁師の話ばかりとりあげて、それが風評被害を増幅させている。福島の海の現状と、漁師の考えを自己発信できるメディアを。風評被害を乗り越えるには、それが必要なのかもしれません。


いわきには、自力でネットを駆使して、情報を収集し、安全な魚を届けるために、奮闘している漁師さんがいる。まだ時間はかかるけど、決してあきらめていない。汚染水問題を一刻も早く解決して、晴れて漁に出られるように。その前に「伝え方」の問題も何とかしたい。現場にそんな漁師さんがいることを知っただけで、なぜか勇気と希望が湧いてきたのでした。

2013年9月10日 (火)

ふたたびいわきサイエンスカフェ②

次に、いわき市四倉町の魚屋さん、大川魚店(うおてん)の副社長、大川勝正さんにお話を伺いました。

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■売上げは震災前の7〜8割に
うちは小売業。いわきの魚屋らしく、夏はカツオやウニの貝焼き、冬はさんま。鮮魚、自家製の粕漬け、干物なども扱って、東京や関西の百貨店でも地魚やギフトを販売していました。店は地震と津波の影響で休業しましたが、2011年の7月に再開しています。

現在は、県外、外国産の魚を中心に販売しています。福島県北部の相馬での試験操業は、週1回行なわれていますが、
海が時化たらその日の水揚げはなく、ごく少量の魚しか、水揚げされていません。しかもそのほとんどは相双地区で消費されているので、いわきに回ってくるのは、月に数回程度。そんな試験操業も、相馬は中断、いわきは延期になってしまい、これからどうしようかと考えています。

震災前は、地魚、県外産、外国産の魚を、バランス良く仕入れていたのですが、今はそれができません。外国産の魚も高くなっていて、仕入れが難しい。いわきならではの季節感ある商品が出せなくて、通年同じような売場になってしまいがち。それも店の運営を難しくしているところです。

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←2012年1月の四倉漁港の様子
現在は撤去され、周囲の工事が進んでいる。

震災直後、魚の消費は減ると思っていましたが、いわきでは、ふだんからよく魚を食べる方が多いので、お刺身やお寿司を中心に、売上げは7〜8割に回復しています。それもいわきに避難地域の方々が来て、人口増加した上での数字。そこへ汚染水漏れのようなセンセーショナルな報道があると、6割ぐらいに落ちてしまう。不安定な状態が続いています。

震災からこれまで、心ない言葉を受けたのは事実です。
とくに県外へ出ると風当たりが強くて、商品を投げられてしまったり、外国産の材料を使っていても「福島産」というだけで、払い戻しされることは、よくありました。百貨店の物産展で、前の日に商品を買ったお客様が来られて、「ダンナと息子が『福島のものなんか食えるか』と。だから返したい」。そういうことが1日1件ぐらいありました。こんな状況もあって、お中元やお歳暮の売上げは、震災前の約50%にとどまっています。
それでも決して悪いことばかりではなくて、熱心に福島を応援してくださるお客様もいます。それに対して魚種が少なくて、季節のものをご案内できず、お客様のニーズを満たすことができない。売場がマンネリ化して、応援しようというお客様も飽きてしまって、今、ちょっと引き気味です。

■消費者は2:6:2の3層に分かれる
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 これは私自身が、日ごろお店に立ったり、仙台、関東、関西の物産展の売場で、なんとなく感じていることですが、お客様は、3つの層に分かれている。

 福島を熱心に応援してくれているお客様は全体の2割くらい。6割は、買ってもいいし、買わなくてもいい。最後の2割はまったくイヤ。「汚染水漏れ」のような報道があると、福島のことを考えている客様にも、「買わない」という方が出てくる。

福島を応援してくださる方は、震災や原発事故、放射能についてもよく勉強していて、いろんな情報を得た上で、自分で判断して「いいよ」と買ってくださいます。

逆に拒絶する方も、応援する方と似ている。
情報に対して能動的に徹底的に調べる傾向にある。小さいお子さんを抱えている方が多いですね。東電や国が出す数値は絶対に信用せず、悪い数値ばかり信用している。

中間の「どうしようかな」というお客様は、情報に関して受動的。たまに出る事故のニュースに「うわっ、大変だ」と反応して、またすぐ忘れてしまう。テレビの情報は聞いているけど、事故の本質はあまり知ろうとしない、そんな方が多いように思います。

今、うちでは、6割の情報に対して受動的なお客様にどうやって訴えていこうか。そこが今後の水産業や農業を回復させていくカギだと考えています。

■空間線量と合せて海水情報を

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ここで、行政や報道機関の人にお願いしたいことがあります。

私にも小さい子どもがいるので、同じように小さいお子さんを抱えるお母さん方に聞いてみました。

今、基準値は100Bq/㎏ですが、小さい子をもつお母さんは、あまりその数字をいいと思っていない。もっと簡単な基準づくりをしてほしい。

福島県漁連も、50Bq/㎏を出荷基準としているようですが、やはり多くのお客様は、不検出を望んでいます。それでも少ーし、数値が出てしまうようなら、検出限界の値を統一してほしい。

やはり検査機や検査機関によって検出限界がバラバラでは、見ているだけでわけがわからなくなると。できれば、ひと桁代。例えば不検出と出たら、それは5Bq/㎏以下だよとか、わかりやすく統一していただきたいのです。
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今、汚染水が問題になっています。テレビのニュースでは天気予報と同じように、件内各地の空間線量が報道されているけれど、あれをもっと海側に広げて、海水や海底土の汚染状況を報道してほしい。それが毎日伝われば、お客様の認識も、少し違ってくるのではと思います。

まず汚染水問題の解決、試験操業から本操業へ、出荷制限される魚を減らすこと——この3つがそろわなければ、福島の魚の復活は、難しいと思います。
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☆大川魚店 http://www.ookawauoten.co.jp

2013年9月 2日 (月)

ふたたびいわきサイエンスカフェ①

8月31日、久々に「いわきサイエンスカフェ」におじゃましました。

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いわきサイエンスカフェは、毎月福島の水産関係者と一般市民が集まって、福島の漁協の未来について、ざっくばらんに話し合う場所。いわき市の水産振興室と東京海洋大学の共同開催で、今回で21回を数えます。

最初のお話は、福島県水産試験場の藤田恒雄さん。 口調はとても静かなのですが、「ここ半月、憤っております!」といって、これまでの海の状況を説明してくださいました。

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福島県では、県の調査船と地元の漁船の協力を得て、これまで177魚種、12286検体を検査。うち73魚種、1946検体から100Bq/㎏を超える魚が見つかりました。
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100Bq/㎏を超える魚は、事故直後は50%を超えていましたが、その比率は時間の経過とともにどんどん下がり、現在は5%前後。
「2年以上経過して、汚染はかなり終息してきた。100Bq/㎏を超える魚もかなり限定されてきた」と、話されていました。
05_3現在、この図の42魚種が国による出荷制限を受けています。
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汚染度が高いのは、沿岸性のこの魚たち。汚れたエサを食べ続けると高い値が出る傾向にありますが、アイナメなどはNDのものもあれば、100Bq/㎏を超えるものもあり、魚の履歴によって個体差が激しいそうです。
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こちらが低い魚たち。事故直後、高い値を示していたシラスは、2011年のうちに100Bq/㎏を下回り、去年もずっとND。相馬双葉漁協に続いて、この9月からいわき市漁協でも漁を行なおうと、準備を進めていました。

軟体動物のイカ、タコは、魚とは体の浸透圧の調節機構が違っていて、まるでスポンジのよう。「汚い海水で揉むと汚く、きれいな海水だときれいに」なる。ずっとNDが続いているということは、それだけ海がきれいになってきた証なのです。

でもって……

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今、漁場の海水を調べても「ほとんどの地点」で不検出。

だけど、東京にいると原発から汚染水が漏れて、漁場が汚染されてしまった。それで相馬双葉もいわき市も、操業を断念したんだ……と思い込んでいましたが、実際は違うようなのです。

以下、水産試験場の藤田さんのお話です。

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去年の6月から相馬松川浦漁港で、試験操業が始まりました。今年4月からは沖合い底引き網。魚種と漁場を拡大しながら15種に。試験操業が続いていた。今年春のコウナゴ漁も始まって、築地ではいい値段で取引されました。

ところが、7月22日、東電が地下に溜まった汚染水が原発の港湾内に漏洩していることを認めました。このニュースで今まで流通していたもの、これから獲ろうとしていたシラスについて、数値の上で安全性が覆ったり、問題が発生したということは、データ上は一切ないですし、海水についても、発表前後で何ら変わらない。


東電の地下水の汚染水漏洩がいつから続いていたのか、実はよくわからない。学者によっては、事故当初から続いていたのではという意見もある。量や濃度はわからないですが、おそらくそうだと考えるのが妥当だと、個人的には思っています。

にもかかわらず、海水の濃度は下がって、魚もきれいになってきた。

ところが、このニュースの直後に相馬双葉の魚が、名古屋の市場で受け入れられなくなった。汚染水が300t漏れた。海に達した可能性がある。それが実際に何を引き起こしたか、評価がまったくできていない。

相馬双葉漁協の方が、あるいは仲買の方が、この風評の中、その都度安全を確認しながら、売り先を見つけて、やっとここまできたのに、操業は一時中止。

これはまったくいわれのない風評だと考えます。

ここで相馬双葉漁協もいわき市漁協も、一時様子を見ることになると、それが自ら風評につながってしまうのではないかと。

これまで流通してきたもの、これから流通しようとしているものの安全性について、データ的には何ら変わらないのに、今、ここで止めてしまったら、次の再開のきっかけを、何に求めるのか。やっとここまで来たものが、途切れてしまって、次、大丈夫なのか? そこが一番心配です。

先日、漁業復興委員会で、東京海洋大学の濱田武士先生がいっていました。詳しいデータを見たら、以前と何も変わっていない。

「汚れたのは海や魚介類ではない。報道によって、人の脳みそが汚染されただけ」

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私の脳みそも汚染されていたみたい。高濃度の汚染水は東電の港湾内に止まっていて、漁場の海水と魚たちは、元の姿を取り戻そうとしている。それを2年半かけてずっと調査してデータを積み上げた上で、いわき市漁協の漁師さんは、海に出ようとしていた……ってことを、新聞やテレビなどのおっきなメディアは、ちゃんと伝えてこなかった。

「なんでだよー。ここまで来なけりゃ、みんな脳みそ汚れたままじゃん!」

海のお掃除も必要ですが、人の脳みそも除染しないといけない。そんな状況にあるようです。

2013年8月10日 (土)

宮手県のあさひや

東北取材の帰り道、どうしても寄りたいお店がありました。

それは一関市千厩(せんまや)町にある「レストランあさひや」。
岩手県と宮城県のちょうど境目=「宮手県」にあります。
お店はまだ空いてるかな?
8時半近くにやっとたどり着くと、原田良一シェフが迎えてくれました。
この町で35年。ずっとお料理されています。
この店を初めて訪れたのは、震災の年の夏。「専門料理」編集部にお手紙をいただいたのがきっかけでした。
翌年は岩手県北部の洋野町でばったり。「ソウルオブ東北」のキッチンカーで現地に駆けつけていました。「あなたの記事、読んでいますよ」のひと言が、涙が出るほどありがたかったのを憶えています。
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この店に来ると、誰もがそのメニューの豊富さにびっくりします。
ハンバーグに、ビーフシチュー、カツカレーに、オムライス。そしてでっかいエビフライ……洋食なら、食べたいもの何でも出てくる感じ。それでいて、地元の食材をふんだんに使った、フランス料理をフルコースで味わうことだってできちゃうのです。
最初に出てきたのは、コンソメみたいな黄金色のスープ。
Photo_2「これ全部、トマトからとっているんですよ」と奥様が教えてくださいました。
知ってる知ってる、トマトを丹念に漉してエキスだけ取り出すと、こうなるんですよね。赤くないけどちゃんとトマトの味がする。繊細で丁寧なお仕事ぶりが伺えます。
次に出てきたのが…
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ビーフシチュー風の、煮込み料理。黄色いのはスクランブルエッグではなく、南部小麦に卵を混ぜて、手で練り込んだパスタの一種。
「そうだ! 岩手は、小麦の産地。南部せんべいもこれでできてるのよねえ」って、思い出したりして。

次に出てきたのは、南三陸町歌津産の穴子のソテーとカレイのフライ。あまりに美味しそうで、写真を撮る前に食べてしまいました。すいません。とにかくここへ来ると畜産の岩手と、水産の宮城。どっちの食材も堪能できるのです。

「あさひや」のある千厩町は、気仙沼市と隣接していて、岩手県でありながら、気仙沼で被災した方たちの、仮設住宅がある場所でもあります。
だから、原田シェフは、岩手と宮城どっちにも跨がる「宮手県」で、避難所や仮設住宅に何度も足を運んで、料理をふるまい、両県のみんなのために奮闘してこられました。
また「あさひや」は、地元の人が、初めてのお子様ランチ、初デート、プロポーズ、お祝い、誕生日、家族の会食……とにかく人生の節目節目にやってきて、家族や友人と大切な時をすごす店でもあります。
「親子4代で来ている人もいますよ。だから私は、ここで店を続けることが、一番の応援なんです」
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そんなシェフも今年の8月8日に、めでたく還暦を迎えられました。
まだまだお元気なシェフは、地元の高校生にテーブルマナーの講習会を開いたり、仮設住宅へ出向いて、お料理教室を開いたり、「宮手県のシェフ」だから、いつもみんなのそばにいるいるからできること、そばにいなければできないことを、ずっと続けておられます。
(←還暦祝のステッカー)
Photo_5震災後は、復興をめざす地元の人たちに加え、ボランティアで初めて東北にやってきた人も、この店の料理を味わい、シェフから東北の食材のパワーと味わいをいただいています。
「いろんな国の言語が飛び交って、まるで多国籍軍みたいですよ」
還暦を迎えたシェフと一緒に、息子さんも厨房に立って奮闘中。彼で三代目となるこの店の歴史は、まだまだ続きます。
これから現地に行く人も、行けないけど「これから行く」って知り合いがいる人も、今は無理だけどいつか行きたい人も、宮城県と岩手県の境目に、ものすごい種類の食材と、ボリューミーなお料理で、日々東北を元気づけている「あさひや」があることを、憶えていてください。

 

レストランあさひや
岩手県一関市千厩町千厩字宮敷43-8
TEL0191-52-2325
営業時間/11時〜21時
定休日/月曜日(祝日は営業)
http://www.asahiya-iwate.jp

2013年5月20日 (月)

魚たちは、今…【福島編】

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はい、こちらはミズダコのお刺身。

3月16日、いわき市のアクアマリンふくしまで開かれた「めひかりサミット」の席でいただきました。 マダコに比べ、足が大きくて太く、ぷりぷりとした弾力のあるミズダコは、福島から茨城沖で漁獲される「常磐物」のお魚のひとつとして知られています。

が、原発事故以来、福島県の沿岸漁業はストップし、漁師さんたちは、操業できない日々が続いていました。福島県水産試験場の人たちは、海から魚を採取して、そこに含まれる放射線量を計りました。その検体数は8000以上。徹底的に計りまくった結果、水産物と放射性物質の間には、ある一定の傾向が見られることがわかってきました。

それがこちら↓ 0303_2 これは、福島県水産試験場の五十嵐敏さんのお話の中のひとコマ。 3月3日、ひたちなか市で開かれた研究集会に参加した時の模様です。
●シラスは、原発事故直後高濃度汚染されていましたが、それは放射性物質の降り注いだ海面近くを泳いでいたから。元々世代交代の早い魚なので、翌年漁獲されたものからは検出されていません。
●広い海を泳ぎ回るカツオのような回遊性の魚種、水深300m以上の深い海にいるキチジ(キンキ)なども不検出。
●さらにイカ、タコ、エビ、カニ、貝、ナマコもずっとND。
ただし、いわきの特産ウニからはセシウムが検出されていて、「合わせてアワビ漁も解禁できないジレンマ」を抱えているそうです。
一方、なかなかセシウムの値が下がらないのが、比較的浅い場所にいる根魚のメバル、カレイ、ヒラメ、スズキなど。釣りの対象としてお馴染みの魚たちです。
では、なぜイカやタコからはセシウムが検出されないのでしょう?
↓水産庁の森田貴己さんが教えてくれました。
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「海の魚は、海水と身体の塩分濃度に差があり、それを調節しながら生きている。それに対してイカやタコ、貝類などの無脊椎動物は、身体の中と外で同じ浸透圧を維持しているので、塩分が素通りの状態が保たれている。だから海水の濃度がきれいになった瞬間、同様に下がっていくと」のことでした。

そうした調査結果を踏まえて、  今、福島県の相馬沖では、以下の魚種の試験操業が行なわれています。

ミズダコ
ヤナギダコ
スルメイカ
ヤリイカ
ケガニ
ズワイガニ
沖合い性のツブ貝(シライトマキバイ、チヂミエゾボラ、エゾボラモドキ、ナガバイ)
キチジ(キンキ)
アオメエソ(メヒカリ)
ミギガレイ(ニクモチ)
コウナゴ(イカナゴの稚魚)
それからめひかりサミットでは、こんな魚もいただきました。
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いわき市のお魚、メヒカリの唐揚げ。 それから…… 0316_0127 ドンコ(エゾイソアイナメ)の味噌汁。ホントに久しぶり。懐かしい味です。 

原発事故で、大きな痛手を受けた福島の魚たちと漁業。
それでも現場の人たちは、真剣に汚染状況と向き合い調査を続け、安全な魚を送り出す道を模索しています。
まずはタコとイカ、カニ、巻貝が、その先頭を切って泳ぎ始めました。
福島の海は、一歩ずつ復活への道を歩み始めています。

2013年4月 6日 (土)

まっちゃんのイチゴ 〜山元町にて〜

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津波被害の大きかった宮城県山元町で、立派なイチゴができました。
渡邉正俊さん=この町でイチゴを作って40年。「まっちゃん」のイチゴです。
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私がはじめてまっちゃんにお会いしたのは、2012年の5月。
「たった1人でハウスを再建して、イチゴを作ってる人がいる」。東京でイチゴを販売している知人に、教えていただいたのがきっかけでした。
亘理町、山元町の沿岸部は、津波の被害が大きくて、産地を形成していたイチゴハウスは、大部分が流されてしまいました。イチゴの栽培には、資金と施設が必要で、苗を仕立てて収穫までたどり着くには、震災直後の夏から取りかからないといけないのです。 
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元のハウスのあった場所は、こんな状態。ハウスの骨組みパイプが、飴のようにぐんにゃり曲がっている。堤防の向こうに海があり、防風林をなぎ倒して集落を襲いました。
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自宅も流され、避難所ではボランティアの受付をして活躍。仮設住宅から津波の来なかった内陸の田んぼに通い、新しいハウスを建て始めました。
 当時は復興予算のメドも立っていなかった。だけどイチゴは適期を逃すと収穫が1年見送りに。見切り発車でパイプハウスを建て、怒濤の勢いで復興を目指しました。70歳を過ぎてるとは思えぬバイタリティ。
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だけどイチゴは、夏の間に苗を仕立てて植え付けないと、11月に始まる収穫に間に合いません。
「このイチゴの苗はどうされたんですか?」
地元で集めたけれど、とても数が足りない。栃木の産地へイチゴ仲間を訪ねると、農家さんが予備に仕立てていた「余り苗」を集め、譲ってくれたそうです。その数5600株。こうして実ったのがこのイチゴです。1年でここまで立ち直った人は、なかなかいません。
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←そんなまっちゃんが、町を案内してくれました。これは母校の山下第二小学校。津波に襲われて、いま子どもたちの声はありません。

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海岸沿いはまだ、津波の跡が生々しくて、防風林がなぎ倒されたまま。だけど手前の砂地には、緑の草が生えていました。住宅跡を回ったら、そこにジャガイモを植えている人もいる。

「ええーっ!。塩かぶったまんまなのに、生えてくるのかな?」

「草がおがって来んだから、芋だって生えっぺ」どこまでも強気なまっちゃん。

_0122改めて、去年の7月におじゃますると、またまたハウスを増設中。

「去年で15a、今年で30aになる。震災前の3分の2だ」。

 
_0093jpg最初に建てたハウスでは、着々と次のイチゴの準備が進行中。腰より高い位置に畑を持ち上げて、土に苗を植える方法を「るんるんベンチ」といいます。復興したイチゴ農家は、土を使わぬ養液栽培が多いのですが、まっちゃんは「やっぱり土でないと味が出ない」と、どこまでも土での栽培にこだわっています。
「なんでるんるんっていうんですか?」
「腰をかがめなくても、楽してイチゴが作れる。だからるんるん♪っていうんだべ」
土を入れたベンチの上を小さなトラクタが耕していきます。こんなちっちゃいの初めて見たー!
_0613そして今年2月、まっちゃんのハウスの横に、こんなのがついていました。
太陽光で温水を作る装置です。できた温水をハウスに流して、ベンチを温める。
ハウス栽培のイチゴは、冬の間燃料を炊いて育てますが、それを減らせるように、震災を機に仙台の企業が取り付けたものです。省エネでイチゴを作るための実証試験が始まっていました。
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近くでは、新しいハウスの建設が始まっていました。これは今年の冬から栽培を再開する人たちのための育苗ハウス。産地全体の復興も進んでいるようです。
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まっちゃん自身、2年間、仮設住宅からハウスに通ってイチゴを育ててきました。
山元町では、自宅を失ってもまだ移転や再建のメドが立たない人も多いのです。
「70歳過ぎたじいさんが頑張ってんだから、オレだって…」
若い人たちが、そう奮起するのを期待して頑張っているまっちゃん。
ハウス隣の作業場には、全国から寄せられた「しあわせの黄色いハンカチ」が、「がんばれー!」ってパタパタとはためいていました。

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